新豊県(しんほう-けん)は、古代中国の漢代に置かれた県の一つである。現在の陝西省西安市臨潼区にあった。高祖7年(紀元前200年)に設置され、はじめ渭南郡に属したが、制度の改変にともない高祖9年(前198年)に内史、建元6年(前135年)に右内史、太初元年(前104年)に京兆尹と所属が変遷した。
もとの驪戎国で、秦代には驪邑といった。県が置かれたのは漢の高祖(劉邦)7年(紀元前200年)である。劉邦は豊県から出て長安に都を置いたが、その老父(劉太公)は故郷に帰りたいと思っていた。そのため、長安の郊外に、豊に似せて城寺街路を築き直し、豊の民を遷した。県名も豊県に「新」を冠したものである。
脚注
参考文献
- 班固『漢書』。小竹武夫訳注『漢書』3、筑摩書店(ちくま学芸文庫)、1998年。
- 中央研究院「漢籍全文資料庫」、2017年5月閲覧。




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